本日は、日本でもたびたび聞かれるようになった「多様性」について、「認める、認めない」までを含めて考えてみたいと思います。
私自身も息子たちの不登校を通じて「多様性をある程度理解できるようになった」と思えます(過去記事「親の成功体験を子供に押し付けてたかも②」)が、国内・国外含めて、みなさんどうなのでしょうか?
最近使われるようになった「多様性」という言葉
私の学生時代(30~40年前)と比べると、多様性という言葉はだいぶ浸透しているように感じます。
当時は、そもそも多様性という言葉が無かった気すらします。
日本で多様性という言葉が広まった詳細な過程は知りませんが、私の感覚としては、『(SDGs:Sustainable Development Goals)持続可能な開発目標』という考えが大きな役割を果たしたと思います。
SDGsは、この単語ばかりが連呼されている印象を受けますが、2015年に国連で採択された後しばらくは、日本ではほぼ報道されていない印象でした。
この「大切な国連の目標」を報道せずに芸能人のスキャンダルの話ばかりが流されていた記憶があります。
しかし、ある時(2019年ころ?)急にSDGsに関する報道がされるようになってきました。
多様性はオリンピックと共に広まった?
この要因として、「2020年東京オリンピック・パラリンピック」の開催が大きかったと思います(私の個人的な感覚です)。
「オリンピック・パラリンピックの平和の概念と、SDGsの概念で重なる部分が大きかったので、一緒に宣伝した」という感じです(個人的な感想です)。
そして、SDGsの概念に「すべての人に」という部分も多いため、ここから「相手の事を考えましょう⇒多様性を認めましょう」と広まった気がします(個人的な印象です)。
学校でも「多様性を認めようね」と習うようですが、言葉として暗記していますが、なかなか理解し実行する人は少数でしょう。
海外でも難しい
では、「海外ではどうなのか?」と考えてみても、「自由の国・アメリカ(米国)」でも分断が進んでいる現状です(先月行われた大統領選挙を筆頭に)。
分断が進んでいるという事は、「多様性を認めない」という事ですよね。支持者が罵り合っている動画を見ると、とても多様性を認めているとは思えません。
つまり、自由の国アメリカでは、「多様な人間が多いが、その多様性はあまり認め合っていない」のではないでしょうか?
様々な人種・民族・国籍の人たちが暮らすアメリカですが、人種差別による問題はたびたび起こっています。これも「他の人種を認めない」という考えに基づいているのだと思います。
他者を認めるのは難しい
そして、これはアメリカ国内だけではなく、もっと広く考えると世界的な「国vs国」で生じているのが、ウクライナやガザの紛争ではないでしょうか。
つまり
「多様性を認めよう」と言われてはいるものの、日本のみならず世界中で「多様性を認めることは困難」
だと感じる今日この頃です。
国連は“2030年までに達成する”と言っていますが、SDGsの17目標のうちのいくつが達成できるのでしょうか?