4年前と3年前に、私の息子達が二人とも不登校になりました(過去記事「小学4年で不登校に」「長男の不登校始まる…」)。
すると私の母からは「かわいそう」と時々言われました(私が)。
それは、不登校になった息子たちがかわいそうなのか?それとも、その親である私がかわいそうなのか?
どちらの意味なのかはわかりませんが、私はそのたびに不快になりました。
そして、息子の同級生の親たちもそのように思っている人が多いようでした(そのうちの一人から、妻が執拗に「解決策」を提案されました・・)。
未婚の従妹(いとこ)
少し話がそれますが、私には同い年の「いとこ」がいます。
私と同い年ですのでアラフィフです。そして、女性です。
そのいとこは独身で子供もいません。
仕事はしており旅行も楽しんでいて、私から見ると「充実した生活を送っているなあ」と羨ましく思う部分も大きいのですが、私の母からすると「かわいそう」らしいのです・・・
母に限らず、このような考えを持つ人は職場にも多くいると感じています。
母にとっては姪にあたるので、もちろん気になる身内です。
気にしてあげることは喜ばしいと思うのですが「かわいそう」発言には、やはり私は気分が悪くなります。
自分の価値観で他人を評価…
これらの事から私が気付いた共通事項があり、母は「自分の価値観で他人(孫および姪)を判断している」という事です。
また、「日本人はこのようなタイプの人が結構多い」事に私は気付きました(息子が不登校になってから)。
戦中・戦後の教育の影響な気がしますが「○○であるべき」「△△であることが幸福」という固定概念が刷り込まれている人が多いと。
自分自身の事については個々で決断していけば良いですが、他人について自分の基準で判断することは、とても危うい状態にもなり得ます。
その典型例が「子育て」でしょう。
私くらいのオジさんになれば、親から言われても反対意見を言えますが、幼い子供が親から言われたら「親の言うことが正しい」と思ってしまいがちです。
そして、その通りにできなければ「自分はダメな子供なんだ」と考えてしまうでしょう。
私自身も息子が不登校になった初期には「子供は学校に行くべき」との固定観念がありましたので、その考えから脱却することにかなり苦しみました。
息子に対しても「学校に何とかして行ってほしい」と登校を促すことも多少したと思います。
固定観念が無くなってくれば
しかし「学校に行かない選択もありだな」と、固定観念がしぼんでいくとむしろ自分の視野が広がっていく感覚があり、”私自身の”人生の幅も広がりました。
そんな「自由人」になってきている私なので、母の「かわいそう発言」に対しては、「何言ってんの?」と考えの狭さによけい不快を感じてしまうのかもしれません。
私ももう少し大きな人間になれれば、母のこの発言に対しても平常心でいられるようになるのでしょうか?…